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【アラベスク】  第1章 春の嵐



第1節 噂の人 [2]

  問われて、美鶴は我に返った。同時に言いようのない不快感が胸の内に湧き上がり、答えもせずに勢いよく立ち上がる。男子生徒は思わず仰け反り、それを周囲の女子生徒がかばった。
 「危ないじゃないの!」
 「ちょっと! 何よその態度!」
 口々に罵声を浴びせる中で、それとは別に囁くような声がサワサワと広がる。
 「大迫(おおさこ)さんだ」
 好奇や不快や侮蔑を含んだ視線が注がれる。それを美鶴は、冷ややかに一瞥してやった。
 「山脇くんはねぇ、ドジなアンタを心配してんのよ!」

 鬱陶(うっとう)しい

 鼓膜にビリビリと響く怒鳴り声を、右から左へ聞き流す。美鶴は無言でスカートの裾を払うと、鞄を拾い上げた。そして、目の前の男子生徒などには目もくれず(きびす)を返すと、そのまま立ち去ろうとした。だが、その美鶴の手首が後ろから引っ張られた。
 予想していれば、無視して振り払っていただろう。だが、思わず立ち止まり、振り返ってしまった。山脇という生徒と向かい合う。その瞳に食い入るように見つめられて、美鶴は一瞬たじろいだ。
 「なによ」
 上擦りそうになる声を必死に整えて、ぶっきらぼうに問いかける美鶴。それに対して山脇の声は実に柔らかい。だが、少し震えている。
 「大迫さん?」
 返事しかねた。問われた意味がわからないからだ。怪訝に睨みつける美鶴に対して、山脇は再び口を開いた。
 「宮田中学・・・だよね?」
 弾かれたように反応する美鶴を見て、山脇は確信したらしい。ホッとその表情を和らげる。逆に美鶴は、頭から血の気が引くのを感じた。
 だが山脇はそんな美鶴に気づく様子もなく、嬉しそうに()む。
 「僕、山脇。覚えてないかな? 二年の時に転校しちゃったから覚えてないかもしれないけど、同じ中学だったんだ。覚えてない?」
 「知らない」
 懐かしむように、少し興奮したように話し出す山脇の言葉とは対照的な冷たい声。
 「アンタなんか知らない」
 低い声で突き刺すように言い返され、山脇は面食らったようにポカンと口を開けた。だが美鶴は、そんな山脇をひと睨みすると、フンッと鼻でバカにして背を向け、歩き出した。背後で山脇がどんな顔をしているのか正確にはわからないが、今の美鶴にはどうでもいいことだった。
 やがて後ろでは、ザワザワと騒ぎ出す女子生徒の声が聞こえてきた。
 「宮田中学って?」
 怪訝そうな声に、美鶴は心内で毒づいた。
 アンタ達には、関係のないことよ!





 美鶴は鍵を開け中に入り、ゆっくり引き戸を閉めた。そして辺りを見渡した。
 二十畳くらいの四角いスペース。その中央に机。それを挟むようにして二つの長椅子。見た目は木製だが、実際には無機質で作られている。壁には、この建物がまだ駅舎として利用されていたころの様子を、パネルにして展示してある。
 昭和の初め頃、ここを走る路面電車は庶民の足だった。だが、やがて自家用車というものが普及しはじめ、公共交通機関は採算が取れなくなり、廃線となった。
 線路が撤去されてからも、駅舎はしばらく放置された。宅地開発が進み、辺りが公園として整備されることになって、ようやくその処分が市議会にあげられた。特に豊かでもない地方都市にとっては、あまり魅力的な建物とも言えない。結局は取り壊す案が採決されるだろうというところまできて、一人の男性が買い求めた。そして結局は、公園の休憩所として残された。
 埃まみれの内装は綺麗に塗り替えられ、市電が走っていた頃の思い出にとパネルが飾られ、市民にも開放された。作られた当時は毎日それなりに人の出入りもあったらしい。だが、それから十数年。今では訪れる人も少ない。それでも男性は、手放すこともせず、駅舎は今もここにある。
 美鶴がこの場所を見つけたのは、高校一年の秋だった。一人で静かに過ごせるので、つい夕方まで居座ってしまった。夕方の五時になって年老いた男性がやってきて、施錠するからと追い出された。
 公園の陰に身を(ひそ)めるように(たたず)む雰囲気に魅かれてそれから数日通っていると、ある時、若い男性が現れた。この建物を買った男性の孫だという。
 霞流(かすばた)慎二(しんじ)と名乗るその男性から、この建物の歴史を簡単に聞かされ、さらにはこう言われた。
 「祖父にとっては昔を懐かしむ建物でも、正直、私にはあまり魅力的には見えなくてね。年老いた祖父にここの管理を任されていて、祖父のことを思うとせめて生きている間は手元に置いておくべきだとは思うのだが、やはり毎日の施錠と開錠は楽ではないよ。使用人にさせているのだが、自宅から近くもないこの距離を毎日往復させるのは申し訳ないと思ってもいる」
 細身の長身は物腰柔らかで、それだけでも育ちの良さを伺わせた。本来、金持ちという類のものには嫌悪を抱く美鶴だが、彼に対してはそうは感じなかった。
 だまって聞き入っている美鶴に対して、霞流はようやく本題を切り出した。
 「そこで、ここの管理を君にお願いしたいのだが、どうだろう? 引き受けてはくれないだろうか? 聞くところによると、毎日通ってきているようじゃないか」
 突然の提案に、呆気に取られた。だがそれは美鶴にとって、別に悪い提案ではなかった。
 登校時に鍵を開け、放課後に立ち寄り施錠するだけ。休日は今まで通り年老いた使用人がやってくるので、学校のある平日だけ。特に賃金が発生するワケではないが、自宅以外に一人で過ごせる場所がないかと探していた美鶴には、まさに願ったりとも言えた。だから引き受けた。
 それから半年、ほぼ毎日通っている。
 最初は言われた通りに、朝開錠してから登校した。だが、美鶴がこの駅舎で放課後を過ごしているらしいという噂は、静かながら校内に広まり、一部の生徒がたまに覗きにくるようになった。
 授業が終わって美鶴が来る前に陣取り、待ち伏せをしてダラダラとつきまとう女子生徒や、ちょっとした隠れ家的に居座る男子生徒まででてきた。そもそも市民に開放された場所でもあったから、浮浪者まがいが寝そべっていることもあった。そういった(やから)を追い出すのには手間も労力もかかる。やがて美鶴は、朝ではなく放課後に開錠するようになった。それでも霞流から苦情がくることもなかったので、それが今も続いている。
 美鶴はもともと、誰にも好かれてはいない。友好的とは言えないその態度に加えて、学年で断トツを誇るその成績も、周囲に不快感を与えるのだろう。何より美鶴自身が、親しく仲良くなろうとはしなかった。むしろ、なりたくないとすら思っていた。

 つまらないことで騒いだり泣いたり。単純で何も考えないような人間なんて・・・

 やがて同級生たちも飽きてきたのか寄りつかなくなり、たまに公園を散歩した人が休憩に立ち寄ることもあったが、ほとんどは一人だった。
 いつもの席に腰を下ろすと、鞄を机の上へおいた。英語の教科書を取り出し、今日の復習に手をつける。春の日差しが細々と入り込み、ほのかに温かかった。家よりも、心地よいかもしれない。
 誰かにそばにいて欲しいとは思わない。その点では、さっさと家に帰ってしまうに越したことはない。だが、美鶴は五時ギリギリまでここで過ごした。
 ふっと、外に視線を感じる。建物の一面は、美鶴の腰辺りから上がガラス窓になっている。だから、顔を上げれば視線の正体を確認することができる。だが、美鶴はあえて顔をあげようとはしなかった。ねっとりとした視線が、自分の上に注がれる。
 美鶴がそ知らぬフリで教科書へ視線を落としていると、やがて外の人物は建物に背を向けた。そこでようやく顔をあげた。
 ヒョロっとした後姿にぴったりと整えられた白髪。その頭部が突然振り返った。銀縁メガネの奥の瞳が、肩越しにこちらへ向けられる。一瞬、美鶴と視線が合う。だが、教頭の浜島(はまじま)は、その一瞬だけでその場を去った。
 美鶴は、その後ろ姿に唇を噛んだ。
 まるで監視するように毎日やってくる。自分の勤める学校の生徒が何かしでかさないかと。いや、むしろ、何かしでかして欲しいと思っているのかもしれない。そうすれば、美鶴を退学させることができる。
 学校にとって、美鶴など所詮は厄介者なのだ。
 そう、私はどうせそんな存在。疎まれるか、でなければ、蔑まされて笑われるか。
 脳裏に、昔の友人の顔が浮かび上がる。昔は友人だった、今はもうどこでどうしているのかもわからない少女。そうして、その(かたわ)らに立つ、長身の少年。少女を見下ろして優しく微笑む。
 美鶴は目を閉じた。
 みんな、そうやって私を騙して蔑んで楽しむのか。
 そっちがそうなら、こっちだって・・・
 噛みしめた唇から、微かに血の味がしみた。どこというでもなく宙を睨みながら怒りに震えていると、視界の端がチラリと光った。
 ?
 そちらを向いても、何も見えない。
 気のせいか?
 いや・・・・ 違う。
 美鶴は立ち上がって、気になる方向へ歩いてみた。
 何かが光った。そうだ。さっき感じたのもこれだった。何かが微かに光ったのだ。
 「なにこれ?」
 つまみあげたものは、手の平に乗るほどの小さなキーホルダー。銀色の筒がくっついている。美鶴が落とした覚えはない。
 霞流かその使用人が落としていったのだろうか?
 首を傾げて思案しているところに、扉の開く音。とっさにキーホルダーをスカートのポケットに仕舞う。振り返った視線の先で、男が情けなく笑った。
 「や、やぁ」
 必死に作り笑顔で声をかける相手を見て、美鶴は余計に白けてしまった。
 無言で見つめ返す美鶴の刺すような視線に、相手はビクリと身体を震わせる。背は美鶴よりもやや低く、下っ腹の出た典型的な中年男性。(ふち)()しの眼鏡の奥は常にキョロキョロと落ち着き無く、駅前で立っていようものなら挙動不審で職務質問でも受けそうだが、これでも立派な数学の教師だ。
 「や、やっぱりここだったね」
 そう言いながら、数学教師の門浦(かどうら)は中へ入ってくる。言葉からして、美鶴に会いにここへ来たらしい。美鶴がここにいることは職員にも知れているから、別におかしなことではない。だが、尋ねられる理由がわからない。
 不審(ふしん)()に相手を見下ろす美鶴の態度に、相手はさらに動揺したらしい。風が吹けばまだ肌寒さを感じる時もある4月の午後なのに、額にはまたたく間に汗がにじむ。
 「実はね、いや、明日でもよかったんだけどね、その・・・やっぱり早い方がいいかと思って、あ、別に急いでる訳じゃないんだよ」
 門浦はいろいろ理由ばかりを先に並べて、肝心の本題にはなかなか入ろうとしない。よほど言いにくいことなのだろうか?
 だが、そんな門浦の言い訳にのんびりと付き合えるほど、美鶴は気の長い性格ではない。
 椅子に腰をおろし、これ見よがしに(ほお)ひじをついた。
 さらに鋭くなった視線を感じて、門浦は生唾を飲み込んだ。そうして一息おくと、美鶴との間に距離を置きながらゆっくりと部屋をまわりだした。
 「その・・・だね、先週やった校内模試の結果なんだけどね」
 二学年にあがって最初の校内模試。内容は一年の時の復習がほとんどだが、二年の内容も一部含まれている。進学校なのだから、春休みのうちに二年の内容の予習をするのは当然といえば当然だ。塾などに通っている生徒は学校よりもずっと先の内容に手をつけているから、もはや予習とも言えまい。塾や予備校に通っていない美鶴とて、彼らに遅れをとるワケにはいかないし、むしろ彼らよりも上を行くつもりで春休みも過ごしてきた。
 今回の模試も一年の時同様、全科目学年一番のつもりでいる。
 「校内模試がなんですか?」
 まさか、成績を告げにワザワザ探しに来たとも思えないが、だとすると何なのか?
 怪訝に首を傾げる美鶴へ、門浦は一枚の紙を差し出した。
 「その・・・ 君がカンニングをしていたようなのでね」







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